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officematsuura3

Author:officematsuura3
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JR尼崎駅北側、徒歩5分のところで、カウンセリングおよびセラピーをおこなっている臨床心理士です。

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まりのこと

 
2014/08/04(Mon) Category : エッセイあるいは童話
じいちゃんのことやちゃーちゃんのことを書いたから、もはや「夏休み特集」になってしまったので(笑)、まりのことを書きます。まりは、うちの実家の飼い猫で、ペルシア猫と日本猫のハーフで、生まれてすぐに、親父の後輩のよこやまさんから譲ってもらって、うちの実家で20年近く、生きました。まりという名前は、私が幼い頃、うちの実家にいた犬のまりの名前から引き継いだものだと思われます。犬のまりは、ある朝、亡くなっていました。犬のまりが死んだということについて、幼稚園児だった私は、なんだかよくわからなくて、ぽかーんとしていた記憶があります。さて、猫のまりは、兄弟のいなかった私にとって、妹のような存在でした。うちのおふくろや親父は、俺より、まりのことを可愛がっていました(笑)。まりは、基本的には、うちの実家の家の中で生活していましたが、外に出るのが大好きだったので、親父やおふくろが、まりに首輪をつけて、散歩に連れていったりしていました。うちの実家は、小さいながらも、庭がありましたので、まりは、庭を走りまわるのが大好きでした。まりは、飼い猫といえど、野生の本能をもった、本物の猫でしたから、近所の猫たちが、まりの縄張りに入ってきたら、よくけんかをして、ときには、けがをしたり、いちど、雀をつかまえて口にくわえて持ってきて、おふくろに見せたところ、おふくろは、雀を放しましたが、まりにとって、それでよかったのだろうかと、いまだに私は考えています。そうそう、それから、まりは、おふくろが私に説教していると、どこからともなくやってきて、猫らしく鳴いて、見事に場をなごましてくれて、自ずと、おふくろの説教がおわり、幾度となく、私をたすけました。だから、私は、まりには恩義があります。まりと私がいちばん仲が良かったのは、私が浪人して河合塾に行っていた頃です。入試直前には、河合塾の講義はなく、京大と東大の過去問を私が二階の自室で解いていると、親父とおふくろが仕事に行っていていないので、まりはさびしくて、一階のまりの定位置から、階段を鈴を鳴らして駆け上がってきて、私の部屋に来て、じいちゃんの机にジャンプして飛び乗り、京大と東大の過去問を踏んづけてのぼってきて、私の手に持っている鉛筆に顔をすりつけました(笑)。私は勉強の邪魔になるので、また、まりのせいで、京大に行けなかったら困るので(笑)、まりのあごとあたまとからだをなでてあげると、まりは、くつろいで、リラックスして、いわゆるグルーミングを一通りやって、それから私の膝の上に乗ってきて、まるくなって、ぐっすりと眠りました。それで私もまりを起こさないように気をつかっていましたので、京大と東大の入試直前は、まりと遊んでいたようなものですから、あまり勉強していませんが、それまでに十二分に勉強していたのでそれでよかったです。まりのおかげもあって、私は京大と東大に受かり、京大に来ました。関西に来てからは、まりとは、あまり遊べていなかったですが、うちの妻と結婚するさいに、妻と二人でうちの実家に帰省して報告をしたときには、まりは、その猫生(人生)の最晩年をむかえていました。もう、ダンボールの箱にタオルケットをひいたそのなかで、やせこけたからだで、ずっと寝ていて、動きませんでした。その後、ボストン留学中の私の夢に、まりが出てきて、ああ、まりはもう死ぬんだな、とわかりました。このような夢は、私は、まり以外には、見ていません。まりは死にましたが、私たち家族は、まりのことをたぶん、忘れないでしょう。まりは、最高に可愛い猫でした。今でも、うちの実家に帰ると、まりの写真がリビングのいちばん目立つところに、ひっそりとあります。(おわり)

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じいちゃんのこと(3)

 
2014/08/03(Sun) Category : エッセイあるいは童話
じいちゃんは、私が京大と東大のダブル合格をしたとき、私が京大をえらんで行ったので、ほめてくれました。じいちゃんの遺伝子は、おふくろを経由して、私にも伝わってきているようです。じいちゃんの鬼のように強い信念は、私にも引き継がれているようです。それで、たぶん、私の妻が迷惑していると思います(笑)。ばあちゃんの苦労はよくわかる。最晩年、ばあちゃんは、ずっと病院に入院していたのですが、じいちゃんは、毎日、お見舞いに行き、介護をしていました。それが、せめてもの、ばあちゃんへの、長年の恩義に報いるものであったことを期待します。ばあちゃん、どうかなあ?じいちゃんみたいに生きていたら、将来、私も妻に恨まれますので(笑)、考えたいと思います。じいちゃんは、最近、私への手紙では、「医師はその人の人格以上の医療はできない(柳澤桂子)。」となんども送ってくるので、ちょっとばかり、うんざりしています(笑)。まずもって、そんなことは当たり前であり、低いレベルの医師たちは全国どこにでもごろごろしていますし、だいたい私は医師ではなく、医療と言うよりもカウンセリングをおこなっている臨床心理士であることに誇りをもっています。じいちゃんが生きているあいだに、もういちど、ほめてもらえるよう、私は全力を尽くします。(おわり)

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じいちゃんのこと(2)

 
2014/08/03(Sun) Category : エッセイあるいは童話
じいちゃんにとって、私は初孫ですので、じいちゃんにかわいがられて育ってきました。じいちゃんは、私が小学校に上がるときに、ものすごく大きな、木製の勉強机を送ってくれました。いまでも、私の実家にあるはずです。夏休みには、家族で岡山のじいちゃんの家によく行きました。じいちゃんの家に行くと、ばあちゃんが丸一日、台所にこもって、ものすごく美味しい料理をつくってくれました。ちなみに、当時、じいちゃんの家のトイレは、水洗ではなく、くみ取り式で、お風呂は、五右衛門風呂でしたが、今となっては、すべて懐かしいです。夏休みにじいちゃんの家に行くと、おふくろの妹である、のぶちゃん一家やしげちゃん一家の帰省と重なることがありました。とくに、のぶちゃんの長男である、よしのぶとは、じいちゃんが買ったルームランナーでどっちが長く走れるかなどと遊んだ記憶があります。また、しげちゃんの夫である、けんちゃんは、たしか名大の理系の大学院を出て、市役所か県庁に勤めて、人形峠の放射能測定などの仕事もしていました。けんちゃんは、市民の読書会などにも参加していたインテリですから、けんちゃんの家に学生時代に遊びに行ったとき、たしか林達夫著作集の一冊を貸りた記憶があります。それよりなにより、けんちゃんは、リベラルな人でしたので、子どもの私やよしのぶに対しても、同じ目線で接してくれました。けんちゃんには、いろいろなことを教わり(本やクラシック音楽や子どもとのつきあいかたなど)、影響を受けています。けんちゃんは、もう現役を引退されて、晴耕雨読の生活をしているはずです。じいちゃんは、当時、旅行会社に勤めていましたから、うちの一家、のぶちゃん一家、しげちゃん一家を全部まとめて、夏休みに、さまざまなところに旅行に連れて行ってくれました。いちばん記憶に残っているのは、沖縄に行ったときのことです。よしのぶの妹のかなこがとってもポジティブで元気に幼く、よい意味でのムードメーカーになって楽しかったです。じいちゃんの家には、分厚い木製の本式の将棋盤がありました。私はじいちゃんと将棋を指しました。小学校中学年ぐらいまでは、じいちゃんに負けていましたが、小学校高学年ぐらいになると、じいちゃんに勝てるようになりました。負けず嫌いのじいちゃんは、私とは、将棋を指さなくなりました(笑)。(つづく)

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じいちゃんのこと(1)

 
2014/08/03(Sun) Category : エッセイあるいは童話
ちゃーちゃんのことを書いたら、妻が、「おじいちゃんは?」と言ったので、たしかに、じいちゃんのことを書いておかないといけないなあ、と思ったので、書きます。じいちゃんは、私の母方の祖父であり、私の祖父母のなかで、唯一人、この世に生き残っていて、あと数年生きたら、百歳になる人です。じいちゃんは、今、現在、知多半島の私の実家にお世話になっていますが、岡山県の倉敷市にずっと住んでいました。じいちゃんは、国鉄(今のJR)に勤めていて、最後は、たしか新倉敷駅の助役をして、そのあと、たぶん、いわゆる天下りで、民間の旅行会社で働いていました。じいちゃんは、エネルギーのかたまりのような人だったので、倉敷市市会議員や倉敷市歩け歩け協会会長などもしていたはずです。たしか、大昔、おふくろから聴いたのですが、岡山県県会議員になるはずだったのですが、お金がなくてやめたようです。じいちゃんは政治にたずさわっていたので、春日一幸さんや江田五月さんとも知り合いで、おふくろが岡山から名古屋の高校に就職するときには、名古屋に住んでおられた春日一幸さんの秘書のお宅に下宿しました。おふくろと親父は、古き良き日本人なので義理堅く、春日一幸さんの秘書のお宅には、私がけっこう大きくなっても、おふくろといっしょに、正月のご挨拶に連れてゆかれた記憶があります。じいちゃんは、鬼のように強い信念の人でしたので、夜は8時には寝て、朝は3時に起きてからハードなジョギングやウォーキングをして新聞に目を通し、ラジオやテレビは、NHK以外はつけない、机はいつも鬼のように整理整頓されている、お酒やたばこは一切飲まない、といった人でした。じいちゃんの妻であった、ばあちゃんは、90数歳で亡くなりましたが、じいちゃんの妻をやるのは、並大抵のことではつとまらず、ものすごい苦労をしたのであろうなあ、と私は思っています。じいちゃんは、広島に親戚がいるなど縁があって、広島に原爆が投下された直後に、広島の様子が気になって見に行きましたので、被爆者手帳をもっていますので、私は一応、被爆三世です。私の学生時代、広島に遊びに行ったとき、じいちゃんの親戚のおじさんがものすごく歓待してくれて、すっごく美味い料理をおごってくれたり、宮島などに観光案内してくれた記憶があります。じいちゃんは、当時の時代背景もあって、ほとんど学歴はないのですが、私がじいちゃんと話すかぎり、うちの親父やおふくろよりは、頭がいいです(笑)。じいちゃんは、死んでいないかぎり、うちの実家にいるはずですが、図書館で貸りてきた本を、暇なので、独学で一日中、読んでいるはずです。(つづく)

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ちゃーちゃんのこと(3)

 
2014/08/02(Sat) Category : エッセイあるいは童話
私の幼名は、たーくん、といいます。この童話は、子どものたーくんになり切って書きます(笑)。関西に来てから、たーくんこと私は、それほど帰省をしませんでしたが、それでも、お盆や正月は、たまには、帰省をしました。正月には、ちゃーちゃんの家に、まっとにいちゃん一家やかずねえちゃん一家やじゅんねえちゃん一家が帰省して新年会をやるので、たーくんも新年会に出て、美味しい料理やお酒を楽しみました。ちゃーちゃんの家の新年会は、たーくんは、みんなに会えて、ほんとうに楽しかったです。それから、おじちゃんが亡くなってから、ちゃーちゃんは、京都の知恩院に、ほぼ毎年ゴールデンウィークに、おじちゃんの供養のために、みんなといっしょに、お参りにきましたので、たーくんも合流して、いっしょにお参りをして、そのあと、昼食に行き、それから京都観光をして、京都駅まで見送りました。ちゃーちゃんは、三河の岡崎出身です。若き日のおじちゃんが岡崎の女学校で教えていたときに、ちゃーちゃんと出会って結婚したのでした。まちがっていれば、まっとにいちゃん、教えてください(笑)。いちど、ちゃーちゃんと二人で、たーくんは岡崎に行ったことがあります。それと、たしか岡崎だったと思いますが、川岸で花火大会があり、ちゃーちゃんやまっとにいちゃんたちと見に行って、たーくんは、ものすごく、間近で、花火を見て、その迫力に感動した記憶があります。ちゃーちゃんは、いま、犬山のまっとにいちゃんとえつこさんのお世話になっています。数年前に、たーくんは、ちゃーちゃんのお見舞いに行って以来、ちゃーちゃんに会っていません。このエッセイあるいは童話を書こうと思ったのは、ちゃーちゃんの生きているあいだに、たーくんは、心から、ちゃーちゃんにお礼が言いたかったからです。ちゃーちゃんがいなければ、今の私はあり得ません。ちゃーちゃんから受けた、ご恩に報いるために、一人でも多くのクライアントの方々を助けたいと思います。もしかしていつか、あの世で、ちゃーちゃんやおじちゃんに会うことがあれば、「たーくん、よくやったね。」と言ってもらえるよう、その日まで、たーくんは、がんばります。(おわり)

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